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加賀百万石には遠く及びませんが明石は十万石の藩でした。明石城跡は、江戸時代、明石一帯を治めた明石藩主の居城の跡で、日本さくら名所百選、日本百名城に選ばれています。百万都市・神戸は、明石藩が栄えた頃は2万石の神戸城がある小さな町でした。明石が戦略上重要な拠点であったことを意味します。
その昔、「播磨国」は「針間国」(加古川以西)に「明石国」(明石郡・美嚢郡・加古郡・印南郡)、と「針間鴨国(加古川中流〜上流)」が大化の改新以降にへ編入されできた国です。江戸時代の播磨国は、山崎藩、安志藩、三日月藩、林田藩、三草藩、龍野藩、小野藩、姫路藩、赤穂藩、明石藩、福本藩、播磨新宮藩、姫路新田藩、三木藩、平福藩が置かれ、明石藩はその一つでした。加古川は姫路藩の一部でした。
播磨の地は、東播(とうばん=東播磨)、西播(せいばん=西播磨)、北播(ほくばん=北播磨)に分けられますが、東播:明石市、加古川市、高砂市、加古郡 、北播:三木市、小野市、加西市、西脇市、加東市、多可郡 、西播:姫路市、相生市、赤穂市、宍粟市、たつの市、神崎郡、揖保郡、赤穂郡、佐用郡になります。
京都と大坂に近い明石藩は、江戸幕府が西国諸藩の押さえの地として重要視し、歴代譜代・親藩大名が明石藩主となりました。明石城は、大坂夏の陣で戦功をあげた小笠原忠真が藩主となり、一部は幕府直営で実施され1620年(元和六年)4月に完成しました。
本丸の東側に、二ノ丸と三ノ丸(後の東ノ丸)を配置し、本丸西の端には天守台を建築予定でしたが、天守閣は築かれませんでした。本丸西側の高い石垣の下には西ノ丸があり、その西に捨曲輪(すてくるわ:敵に攻撃をさせ簡単に敵に渡したあと、地形・地の利が悪いので、囲んで敵をせん滅するために造られた)を配置したのは、西国から攻めよせる敵の防御のためです。本丸と二ノ丸と三ノ丸の南面には、防御陣地や兵の駐屯施設である大曲輪(おおぐるわ)を配置し、下屋敷と家老等の屋敷を造営しました。
大曲輪を取り囲むように堀と土居が西と南と東に巡り、城の北側は自然地形の谷を堀に活用し、鴻ノ池(後の剛ノ池)と結びつけ、城郭の周囲は四面は水堀で区画されていた様子は、「播磨国明石新城図」(小笠原忠真一代覚書や』)や正保城絵図等の絵図・史料に記載されています。
明治になり廃城令を経て明石城跡は「県立明石公園」に生まれ変わりました。本丸等の石垣や大曲輪の堀、南東の巽櫓(たつみやぐら)や南西の坤櫓(ひつじさるやぐら)からは、江戸幕府初期の状況を残す国の重要文化財として選ばれています。
http://www.dandl.co.jp/hyogo/kanko10.html
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kinki/akasi.html
http://8527.teacup.com/kinugawa3mannami3gakkyuu/bbs
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